やさしい解説の記事で、「おこりっぽい」の「ぽ」から、ハ行の古い音を推理する話を見た。ここでは、上田万年の「P音考」(『国語のため 第二』所収)が、実際にどういう順序で証拠を積んでいるかを、原文で確かめる。(以下、引用の現代語訳は ToL による。)

第一の証拠:濁音から、清音を逆算する

上田は、まず、清音と濁音の関係に注目する。式の形で、こう示す。

D=T  G=K  B=(?)=P!!

ダ行(D)はタ行(T)から、ガ行(G)はカ行(K)から出た濁音である。では、バ行(B)は、どの清音から出たのか。上田は、こう続ける。

B音の出し清音は、決してハ行(H)音にもあらず、ファ行(F)音にもあらず、卽ち純粋なる唇的清音パ行(P)音ならざるべからず。

(B音のもとになった清音は、ハ行のH音でもなく、ファ行のF音でもなく、すなわち、純粋な唇の清音であるパ行のP音でなければならない。)

ここが、この論の骨格である。濁音は、清音に「濁り」を加えたものだとすると、バ行の清音は、同じ唇の音、すなわちPでなければならない。ところが、現在のバ行の清音として並んでいるハ行は、唇の音ではなく、喉の音(H)である。この食い違いに、上田は、古い姿の手がかりを見たのである。

第二の証拠:反対の立場への、質問

上田は、「ハ行はもとから喉の音だった、上古にP音はなかった」と考える論者に対して、質問を並べる。

何故に今日の如き喉的H音が濁る必要ありたるか。よし濁る必要ありたりとするも、喉的H音が濁るに当りて、何故に唇的濁音とはなりたるか。

(なぜ、今日のような喉のH音が、濁る必要があったのか。仮に濁る必要があったとしても、喉のH音が濁るときに、なぜ、唇の濁音になったのか。)

喉の音が濁って、なぜ、唇の音になるのか。古説がハ行を「唇音」としていたことも、この疑問と重なる、と上田は指摘する。この質問のしかたが、上田の推理の特徴である。相手の説を、まず受け入れたうえで、その説では説明のつかない点を、順に突いていく

第三の証拠:梵語の音の写し方

上田は、日本の外の証拠にも、目を向ける。

梵漢の二国語に於けるP音が、日本の波行にて写され居るにかゝはらず、梵漢の二国語に於けるH音が、総て我国にては加行に写さるゝ事これなり。

(梵語と漢語の二つの言語のP音が、日本のハ行で写されているにもかかわらず、梵語と漢語の二つの言語のH音が、すべて日本では、カ行で写されている、という事実である。)

上田が挙げる表を見ると、たとえば、梵語のHami(哈密)、Arahan(阿羅漢)、Maha(摩訶)の「ha」の音は、日本では、「か」の行で読まれている。もし、当時の日本語のハ行が、H音だったなら、外国語のHの音を、ハ行で写せたはずである。ところが、実際には、喉の音であるHは、似た喉の音であるK(カ行)で写された。当時の日本語にはH音がなく、そのかわり、ハ行が、P音だったから、と上田は読む。

第四の証拠:アイヌ語の中の、日本語

もう一つ、上田は、アイヌ語に入った日本語に、注目する。

上田は、アイヌ語が、P・F・Hの三つの音を区別する言語であることを確かめたうえで、その語のなかに、日本語からの借用らしい語が含まれていることを示す。

上田が挙げるのは、日本語の「はし(箸)」に対応する pashui、「ひしゃく(柄杓)」に対応する pishako、「ほね(骨)」に対応する pone、「はかり(量)」に対応する pakari などである。いずれも、日本語のハ行が、アイヌ語では、P音で現れている。

そこで上田は、こう問いかける。

もし新しく入りし者なりとせば、何故にF・Hを有するアイヌは、之を其の音にて伝へざるか。

(もし、これらが新しく入ってきた言葉だとするなら、なぜ、FやHの音を持つアイヌ語は、それをそのままの音(FやH)で受け取らなかったのか。)

アイヌ語には、HもFもある。それなのに、日本語のハ行の語を、Pで受け取っている。Pで受け取ったのは、これらの言葉が入った時代の日本語のハ行が、Pだったからではないか、というのが、上田の論法である。

①濁音の対応 D=T、G=K なら、B=(?)=P。ハ行(H)は唇の音ではない 濁音のもとの清音は、唇の音Pでなければならない ②反対説への質問 喉のHが、なぜ濁る必要があり、なぜ唇の濁音になったのか 相手の説を受け入れたうえで、説明のつかない点を突く ③梵語の写し方 梵語のHは、日本ではカ行で写された(哈密・阿羅漢・摩訶) 当時の日本語のハ行がHなら、Hはハ行で写せたはず ④アイヌ語 日本語のハ行の語が、Pで入っている(pashui, pishako, pone, pakari) HもFも持つアイヌ語が、なぜPで受け取ったのか 図:ToL(上田万年「P音考」の論の運びによる)
「P音考」の四つの証拠。図:ToL

この論文から分かること

「P音考」は、一つの決定的な証拠で結論を出す論文ではない。日本語の中の事実(濁音との対応、複合語の癖、擬音語)、日本の外の事実(梵語の音の写し方)、隣の言語の事実(アイヌ語)という、性質の違う複数の証拠を、同じ結論に向けて重ねていく。

まとめ

論点内容
①濁音の対応D=T、G=K なら、B のもとの清音は唇の音 P でなければならない
②反対説への質問喉の H が、なぜ濁り、なぜ唇の濁音になるのか
③梵語の写し方梵語・漢語の H が日本ではカ行で写され、P がハ行で写された
④アイヌ語H も F も持つアイヌ語が、日本語のハ行の語を P で受け取っている
論法の特徴性質の違う複数の証拠を、同じ結論に向けて重ねる

一言でいえば——上田万年は、「濁音のもとになった清音は、唇の音でなければならない」という一点から出発し、梵語の写し方とアイヌ語の中の日本語まで証拠を重ねて、上古のハ行がP音だったと論じた。