この特集は、概説記事から始まり、「とても」「右と左」「キセル」「馬鹿」の四つの言葉の来歴を、新村出の『日本の言葉』(1940) で読んできた。最後に、それぞれの答えが、その後どうなったかを整理する。
なお、この記事の「現在の扱い」は、語源研究の一般に知られた整理であり、個々の辞書の記述を、一つずつ確認したものではない。断定を避けるため、確実なものと、そうでないものを、分けて書く。
答えが、ほぼ固まったもの——キセル
キセルは、カンボジア語の「クセル」(管)に由来するという説明が、今日でも一般的である。新村が、自分の最初の案(トルコの町)を取り下げて行き着いた結論は、そのまま生き残った。大槻文彦の『言海』のスペイン語説のほうが、書き換えられた側である。
俗説を退けたことが、今も通用するもの——馬鹿
馬鹿では、新村の仕事は、二つの部分に分かれる。趙高の故事を「漢学者の故事付け」と退けた部分は、今日でも、後づけの通俗語源(民間語源)として扱われるのがふつうである。一方、積極的な答えとして新村がたどった梵語説(慕何=moha、または摩訶羅=mahallaka)は、有力な説の一つとして紹介されることが多いが、定説にはなっていない。語源は未詳とする見方も根強い。新村自身が「決めかねる」と書いたところで、研究は、今もそこにとどまっている。
今も決着していないもの——右と左
ミギとヒダリは、新村が諸説を並べた状態から、大きくは動いていない。日に関係づける説、「曲がる」説、新村自身の「握る」説——どれも、決定的な証拠を欠いたまま、併存している。新村が自分の説に「あるに過ぎまい」と留保をつけたのは、正確な自己評価だったと言える。
語源より、観察が価値を持つもの——とても
とてもは、少し性格が違う。語源についての新村の説明(「とてもかくても」の省略)は、今日でも、広く紹介される有力な説である。ただし、この言葉について、より価値があるのは、語源の推定よりも、新村が1940年に見ていた、変化のさなかの姿の記録かもしれない。「否定にしか使えなかった」という感覚や、肯定の「とても」が、当時は耳慣れない新しい言い方だったという観察は、言葉の変化が起きる瞬間を書き留めた、貴重な証言である。ただし、「山言葉から広まった」という伝播の経路は、新村が伝聞として書いたものであり、確定した事実とは言えない。
変わらないもの:新村の「確かめ方」
四つの言葉の答えは、それぞれ違う運命をたどった。しかし、新村の確かめ方は、答えが変わっても、通用し続ける。この特集で見てきた、その中身を、あらためて挙げておく。
- 文字と言葉を分ける。(「馬鹿」)文字の古さと、言葉の古さは、別のことである。
- 言い切る範囲を区切る。(「とても」)骨格は言い切り、細部は「有らう」と留保する。
- 自分の専門外は、そう断る。(「馬鹿」)「梵語学の彌次馬」と、自分の立場を明示する。
- 間違いに気づけば、すぐ直す。(「キセル」「馬鹿」)自分の最初の案を取り下げ、発表後に訂正する。
- 教えてくれた人の名前を書く。(「とても」「キセル」)語源は、一人で決めるものではない。
大槻文彦から、新村出へ
大槻文彦の特集では、日本で最初の近代国語辞書『言海』が、辞書という形で、日本語の言葉を体系化した仕事を読んだ。新村出は、その次の世代として、辞書に載せる一語一語の来歴を、証拠で確かめ直す仕事をした。キセルの章で、新村が、『言海』の語源説を、冷静に訂正しているのは、その象徴である。辞書は、一度書かれたら終わりではなく、後の世代が確かめ直していくものだ——という、辞書と語源研究の関係を、この二人は、時代をまたいで、見せてくれている。
まとめ
| 判定 | 対象 |
|---|---|
| ほぼ固まった | キセル——カンボジア語のクセル(管)。新村の結論が生き残った |
| 否定が通用 | 馬鹿——趙高の故事は俗説。梵語説は有力説の一つで、定説ではない |
| 決着していない | 右と左——諸説が併存。新村の留保は正確だった |
| 観察が価値 | とても——語源説は有力だが、貴重なのは、変化のさなかの観察の記録 |
| 残るもの | 文字と言葉を分ける、言い切る範囲を区切る、間違えれば直す、教えてくれた人を書く |
一言でいえば——新村出が四つの言葉で出した答えは、あるものは残り、あるものは書き換えられ、あるものは今も決まらない。だが、証拠を並べ、言い切る範囲を区切り、間違えれば素直に直すという、彼の確かめ方は、語源の答えが変わっても、変わらない。