『言語』第13章は、まるまる一章を使って「女性」を論じている。冒頭の民族誌的な観察(カリブ族の男女で異なる語彙を持つ、といった記述)はまだ資料としての価値もある。だが終盤、§11「全般的特徴」に至って、イェスペルセンは現代の目からは明らかに支持できない主張を、学問的な結論として提示する。この特集は、これまで公平さや先見性を評価してきた同じ書き手の別の顔として、この点を避けずに読む。
「女性のほうが速いが、それは知性の証拠ではない」
イェスペルセンは、女性が男性より速く読み、速く話す傾向があるという実験結果(ロマネスによる速読テスト)を紹介したあと、こう続ける。
it was found that this rapidity was no proof of intellectual power, and some of the slowest readers were highly distinguished men. (だが、この速さは知的能力の証拠にはならないこともわかった。もっとも読むのが遅い人のなかに、きわめて優れた男性たちが含まれていたのである。)
女性の優位に見えるデータを提示しながら、その意味をただちに切り下げる——この身振りが、章の終盤でさらに明確な形をとることになる。
「男性のほうが変異が大きい」という当時の疑似科学
イェスペルセンは、イギリスの性科学者ハヴロック・エリスの主張を引きながら、こう書く。
In language we see this very clearly: the highest linguistic genius and the lowest degree of linguistic imbecility are very rarely found among women. The greatest orators, the most famous literary artists, have been men. (言語においてこれは非常に明確に見て取れる。もっとも高い言語的才能も、もっとも低い言語的無能も、女性にはめったに見られない。もっとも偉大な弁士も、もっとも著名な文学者も、男性であった。)
これは彼一人の思いつきではない。19世紀末から20世紀初頭にかけて、「男性のほうが生物学的に変異の幅が大きく、そのために天才も愚者も男性に偏って現れる」という説——「男性変異性仮説」——が、一部の科学者のあいだで真剣に唱えられていた。イェスペルセンが引用するハヴロック・エリスは、この仮説をあらゆる分野に当てはめようとした論者の一人である。イェスペルセンはこれを、女性の副読本ではなく、**言語という自分の専門分野の「データ」**として採用してしまっている。
この特集としての評価
男性変異性仮説そのものが、その後の生物学・心理学で実証的な根拠を失っている。天才と愚者がともに男性に偏って現れる、という統計的な主張は、当時のデータの取り方・解釈のしかた自体に偏りがあったことが、のちの研究で繰り返し指摘されてきた。当時、女性は高等教育や特定の職業からそもそも排除されていたため、「著名な弁士や文学者に女性が少ない」という観察は、能力の違いではなく機会の違いを映していた可能性が高い。だがイェスペルセンはその可能性にまったく触れていない。彼の主張は、この根拠のうえに——つまり、すでに土台を失った理論のうえに——組み立てられている。
さらに大きな転換は、社会言語学という分野そのものの側から訪れた。1975年、アメリカの言語学者ロビン・レイコフが『言語と女性の位置』を発表し、女性の話し方を「劣っている」「不確かだ」という枠組みで語ること自体を問い直した。その後の社会言語学は、男女の話し方の違いを「優劣」ではなく「社会的な機能の違い」として捉え直す方向へ進んでいく。ていねいさを示す言い回しを多く使う、断定を避ける表現を好む——こうした傾向があるとしても、それは知性の欠如の表れではなく、置かれた社会的立場や求められる役割を反映した、合理的な言語行動として説明できる、という考え方だ。イェスペルセンが観察した個々の違い——語彙や言い回しの傾向——そのものは、資料として無価値というわけではない。だが、それを**「知性の指標」として序列化する**という彼の枠組みは、その後の言語学によって明確に否定された。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| イェスペルセンの主張 | 言語的天才も無能も、女性にはめったに見られない |
| 根拠にした理論 | 「男性変異性仮説」——当時の疑似科学的な性差理論 |
| その後の展開 | 男性変異性仮説自体が実証的根拠を失う |
| 社会言語学の転換 | ロビン・レイコフ(1975)以降、優劣ではなく社会的機能の違いとして捉え直す |
一言でいえば——イェスペルセンは、子どもの観察やピジン語の分析では時代を先取りする公平さを見せた。だが「女性」の章では、当時の疑似科学をそのまま学問的結論として採用してしまっている。同じ一人の学者のなかに、鋭い観察眼と、時代の偏見への無防備さが同居していた。どちらか一方だけを取り上げて彼を評価するのは、公平ではないだろう——この特集の締めくくりで、あらためてこの両面を採点する。