これまでの記事で、金沢庄三郎の語源の話を見てきた。金沢の仕事には、もう一つの面がある。『国語の研究』(1910) の巻末近くに、「朝鮮に於ける国語問題」という、政治的な場面で書かれた文章が収められているのである。この本が出たのは、日本が朝鮮を併合した1910年(明治43年)である。この記事では、その文章が何を言っているかを、原文で確かめる。称賛も断罪もせず、当時、何が書かれたかを、読む。(以下、引用の現代語訳は ToL による。)
金沢が、問題だと考えたこと
金沢は、まず、朝鮮に関する諸問題のなかで、将来の用語をどうするかほど重大なものはない、と言う。そして、こう述べる。
我等が此際最慎重に考慮すべき問題は、一千万の民衆が遠古以来用ひ来つた朝鮮語を、如何にして帝国語と融和せしむるかといふことである。
(私たちがこの際、もっとも慎重に考えるべき問題は、一千万の民衆が大昔から用いてきた朝鮮語を、どのようにして帝国語と融和させるか、ということである。)
金沢は、「朝鮮に日本語を普及する必要」を論じる人は多いが、それは常識で、事新しく騒ぎ立てるほどのことではない、と言う。金沢が問題にしたのは、朝鮮語をどう扱うかであった。
「全部日本語で」への反対
この文章の中心的な部分は、当時あったらしい、ある意見への反対である。金沢は、こう書く。
ある人々は、「尋常教育(初等教育)は、すべて日本語で行うべきだ」と言う。しかし、金沢は、それが実際にできるのか、少しは考えてほしい、と言う。今日の沖縄県でさえ、尋常一年は、実際、沖縄語でなければ教えられない。 日本の人は、言語を軽く考えすぎる弊がある、と。
また、金沢は、こういう意見にも反対する。学校の用語を日本語だけにすれば、二、三十年のうちに、朝鮮語に代わって、半島全土に国語(日本語)が通用するだろう、という考え方である。
どんなにしたとて、自然の天則に支配せらるゝ言語の発達を左右することは出来ぬ。
(どんなにしたところで、自然の法則に支配される言語の発達を、思いのままに左右することはできない。)
金沢は、朝鮮語は、自らの内に絶滅すべき原因がないかぎり、いつまでも存続するだろう、と言う。むしろ、やり方を誤ると、かえって日本語のほうが圧倒されるかもしれない、とまで述べる。
金沢の提案
では、金沢は、どうすべきだと考えたのか。まず、日本語の奨励に全力を尽くすべきは勿論だ、と言う。同時に、朝鮮語にも十分の注意を払うべきだとして、家庭語としての朝鮮語、社交語としての日本語という、役割の分担を描く。両者が、いつまでも睦まじく相携えて進み、嫉妬、反目、偏見のような忌まわしいことが、その間に行われてはならない、と言う。
そして、金沢は、教育の言葉について、次のように述べる。初等教育は、朝鮮語を中心とし、あわせて日本語の入門を課す。中等教育では、日本語と朝鮮語を併用し、専門教育に至って、はじめて日本語中心になる——それが「自然の順序」だろう、というのが金沢の考えである。
そのうえで、この文章の、いちばん重要な一文が来る。
朝鮮語は我帝国の一方言として、帝国語の中に包合せられるべきものである。
(朝鮮語は、わが帝国の一方言として、帝国語の中に包み込まれるべきものである。)
読むうえで、確かめておきたいこと
この文章から、読み取れることは、二つの面を持つ。
第一に、金沢は、当時の一部の急進的な意見——日本語だけで教え、急いで朝鮮語を置き換える——には、慎重な態度を取っている。 朝鮮語は、簡単には変えられず、反目を生む危険がある、と述べる。
第二に、その慎重さは、朝鮮語を対等な言語と見ることを意味しない。 「朝鮮語は我帝国の一方言として、帝国語の中に包み込まれるべきもの」という一文は、朝鮮語を、日本語(帝国語)の下位に置く枠組みである。この枠組みは、日本語と朝鮮語は同じ系統だ、という金沢の日韓同系論と、結びついている。同系だから、「一方言」として包み込める、という論理である。
この文章が、併合の年に書かれ、併合という政治的事実を前提にしていることも、確かめておく必要がある。この文章が、その後の朝鮮での言語政策と、どういう関係にあるかについては、判定の記事で整理する。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 金沢の問題設定 | 朝鮮語を、どうやって「帝国語」と融和させるか |
| 反対したこと | 初等教育をすべて日本語で行う案、日本語だけで急速に朝鮮語を置き換える案 |
| 理由 | 言語の発達は、思いのままに左右できない。沖縄でさえ、尋常一年は沖縄語で教えている |
| 提案 | 家庭語は朝鮮語、社交語は日本語。初等教育は朝鮮語本位、中等教育は併用、専門教育で日本語本位 |
| 前提 | 朝鮮語は「我帝国の一方言」として、帝国語の中に包み込まれるべきもの |
一言でいえば——金沢庄三郎は、併合の年に、日本語だけでの急な置き換えには慎重な態度を取った。しかし、その論は、朝鮮語を「帝国の一方言」と位置づける、日韓同系論と結びついた枠組みの上に立っていた。