概説記事で見たとおり、橋本進吉のもう一つの発見が「上代特殊仮名遣」である。この記事では、その中身を、実際の語で確かめる。

まず、現代の私たちの耳で

「雪」(ゆき)と「月」(つき)。どちらも、二つ目の音は「き」である。現代の日本語を話す人なら、この二つの「き」を、同じ音だと感じるはずだ。

ところが、奈良時代の書物では、この二つの「き」は、決して同じ文字では書かれなかった

奈良時代には、まだ平仮名も片仮名もなかった。日本語の音を書くために、漢字の音を借りて仮名のように使う「万葉仮名」が使われていた。ここで、橋本進吉が『古代国語の音韻に就いて』(1942) で挙げている例を見てみよう。

「き」を書くのに使われる漢字系統
雪(ゆき)、君(きみ)、昨日(きのふ)、明(あきらか)伎・企・枳 など甲類
月(つき)、霧(きり)、槻(つき)紀・奇 など乙類

橋本の観察は、こうである。「雪」の「き」には、「伎」「企」「枳」など、どれを使ってもよい。しかし「紀」「奇」は使わない。「月」の「き」には「紀」「奇」など、どれを使ってもよい。しかし「伎」「企」「枳」は使わない。二つのグループは、決して混ざらない。

「き」だけではない

この書き分けは、「き」だけの話ではない。橋本は、次の13の仮名に、同じ書き分けがあることを示した。

エ、キ、ケ、コ、ソ、ト、ノ、ヒ、ヘ、ミ、メ、ヨ、ロ

このうち、「エ」は少し事情が違い、ア行の「エ」とヤ行の「エ」の区別にあたる。残りの12の仮名は、それぞれが二つのグループに分かれる。このグループ分けを、橋本は「甲類」「乙類」と名づけた。

こうして数えていくと、橋本は、奈良時代の文献で使い分けられていた音の区別が、合計で87種類にのぼると述べている。

現代語の「き」は一つ——奈良時代の「き」は二つ 甲類の「き」 伎・企・枳 雪・君・昨日 乙類の「き」 紀・奇 月・霧・槻 混ざらない 現代語の「き」 一つに合流 同じ漢字を使うか使わないか、という文字の事実から、音の区別が見えてくる
甲類・乙類の書き分けのイメージ。図:ToL

なぜ「音が違っていた」と言えるのか

ここで、疑問がわく。書き分けているだけなら、単なる書き癖ではないのか。橋本は、これを、文法との対応によって確かめた。

たとえば、動詞の活用を見てみる。「書く」(四段活用)の連用形「書き」の「き」と、「起く」(上二段活用)の連用形「起き」の「き」は、橋本の調べでは、違う系統の万葉仮名で書かれる。それぞれ、語の種類ごとに、決まった系統の仮名が使われるのであって、著者ごとの気まぐれではない。もし、単なる書き癖なら、こんな規則正しい対応は生まれない。発音が違っていたからこそ、使い分けが、語ごと・活用形ごとに、一貫して守られたと考えるのが自然である。

音の中身は、まだ議論が続いている

では、その二つの音は、実際にはどんな音だったのか。この点について、橋本自身は、慎重だった。冊子のなかで、その正体についてはいくつもの説があるとし、自分でも研究中だが、まだ決定的なことは言えない、と述べている(この部分は、原文精読の記事で読む)。後の研究者たちは、この二つの系統を母音の違いと解釈し、奈良時代の日本語には、現代の5つよりも多い8つの母音があったとする説を有力なものとして発展させた(その展開は、この特集の遺産と影響の記事で扱う)。ただし、二つの音の実際の姿については、現在も複数の説が併存している。

まとめ

論点内容
発見の中身現代語では同じ音に聞こえる仮名(キ・ケ・コなど)が、奈良時代の万葉仮名では、二つのグループに厳密に書き分けられている
対象エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロの13の仮名。合計で87種類の音の区別
音の違いだと言える理由書き分けが、語や活用形ごとに、規則正しく守られている
未解決の点その二つの音の実際の姿は、現在も複数の説がある

一言でいえば——奈良時代の人は、いまの私たちが同じと感じる音を、二つの違う音として言い分けていた。その事実は、彼らが使った漢字の、使い分けのなかに残っていた。