概説記事で紹介したとおり、橋本進吉の二つの発見のうち、現代語の文法にかかわるのが「文節」である。この記事では、それが何なのかを、実際の文で確かめてみる。
「ね」を入れてみる
次の文を、声に出して読んでみよう。
私は昨日図書館で本を借りた。
この文の、あちこちに「ね」を入れてみる。
- 私はね、昨日ね、図書館でね、本をね、借りた。
どこに入れても、自然に聞こえる。では、次のように、ふつうは入れない所に「ね」を入れたらどうか。
- 私ねは昨日図書ね館で本ねを借りた。 (不自然)
「私」と「は」の間、「図書」と「館」の間、「本」と「を」の間には、「ね」を入れると、どうも据わりが悪い。日本語を話す人なら、誰でも感じる違いである。
この、「ね」を入れて自然に聞こえる切れ目で区切った、一つ一つのかたまりが「文節」である。 上の文は、次の五つの文節でできている。
私は / 昨日 / 図書館で / 本を / 借りた
なぜ「私」と「は」は、離せないのか
文節の数え方は、実は単語の数え方とは少し違う。「私は」は、「私」と「は」の二つの単語だが、一つの文節である。「図書館で」も、「図書館」と「で」の二単語で一文節、「本を」も、「本」と「を」で一文節である。
なぜか。「は」「で」「を」のような助詞は、それだけを切り離して使えないからである。「は」だけを口にしても、意味が成り立たない。必ず、前の語にくっつけて、ひとまとまりで発音される。橋本は、この性質を軸に、日本語の単語を二つに分けた。
- 独立する語——それだけで切り離して、口にできる語(「私」「昨日」「図書館」「本」「借りた」など)
- 附属する語——必ず他の語にくっついて使われる語(助詞や、助動詞など)
一つの文節は、独立する語を一つ含み、そこに附属する語がくっついたもの、と見ることができる。橋本自身の言葉で、この区別を読むのは、原文精読の記事で行う。
山田孝雄の「陳述」との違い
山田孝雄の特集で見た陳述論は、「文はなぜ一つのまとまりになるのか」という、心のなかの働きを説明する理論だった。それに対して、橋本の文節は、実際に声に出して、耳で確かめられるという点に、際立った特徴がある。理論の正しさを議論するよりも、「ここで切れる」「ここでは切れない」という事実を、誰もが自分の耳で追試できる。この性質が、学校教育に向いていた。
注意しておきたいこと
ただし、「ね」を入れる方法は、万能ではない。たとえば、「咲いていた」のような形は、「咲いて」と「いた」に区切るのが学校文法の約束だが、「咲いてねいた」と言えるかどうかは、人によって感じ方が分かれる。また、この「ね」を入れる方法は、現代の学校で広く使われている説明のしかたであって、橋本自身が最初にそう述べたわけではない。橋本自身が実際にどう述べたのかは、原文精読の記事で、原文に戻って確かめる。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 文節とは | 文を、発音のうえで自然に切れる所で区切った、一つ一つのかたまり |
| 確かめ方 | 「ね」を入れて自然に聞こえる所が、文節の切れ目(学校で広く使われる説明) |
| 文節の中身 | 独立する語を一つ含み、そこに附属する語(助詞・助動詞)がくっついたもの |
| 山田の理論との違い | 心の働きの説明ではなく、耳で追試できる事実を土台にしている |
一言でいえば——文節とは、日本語の文を、声に出して自然に切れる所で区切った、一つ一つのかたまりである。その区切り方の土台を作ったのが、橋本進吉である。