前章で見たとおり、アリストテレスは真偽の宿る場所を、名詞でも動詞でもなく、両者を結んだに定めた。それから約2000年後、その洞察を思いがけない方向へ広げた本が、パリ郊外の小さな修道院で書かれる。

「話すとは、思考を説明することだ」

1660年、神学者アントワーヌ・アルノーと文法教師クロード・ランスロが匿名で出した『一般理性文法』は、こう書き出される。

文法とは話す技術である。話すとは、そのために人間が発明した記号によって、自分の思考を説明することだ。

「人間が発明した記号」——アリストテレスの公理(ことばは取り決めによる)を、そのまま受け継いでいるのが分かる。だがポール・ロワイヤルは、そこに立ち止まらない。記号が「発明された」のなら、それは何のために発明されたのか。答えは、思考を説明するため。ならば文法の規則は、慣用の寄せ集めではなく、思考の構造そのものから導けるはずだ——これが本書の賭けである。

「である」の正体——判断するという作用

アリストテレスは、主語と述語を結ぶ「である」に、真偽の宿る条件を見た(前章)。ポール・ロワイヤルは、この観察を心理学の言葉で読み直す。人間の精神には三つの働きがある——概念する(ものごとへの単なるまなざし)、判断する(概念したものが、こうである、こうでない、と言い切る)、推論する(複数の判断をつなぐ)。そして文の主語・述語は「概念する」作用の現れ、両者を結ぶ繋辞「である」こそ「判断する」作用そのものの言語的な痕跡だ、というのが本書の核心である(記事052)。

アリストテレスにとって「である」は、真偽が宿るための条件だった。ポール・ロワイヤルにとって「である」は、心が判断するという行為を行うたびに、ことばの上に残る足跡である。真偽の場所を指し示すことから、その場所がなぜそこにあるのかを説明することへ——アリストテレスの観察は、ここで理由を手に入れる。

「人間は白い」——主語・繋辞・述語 人間 である 白い アリストテレス 真偽が宿る「条件」 ポール・ロワイヤル 「判断する」作用の足跡
同じ「である」を、アリストテレスは真偽の条件として、ポール・ロワイヤルは心の作用の現れとして読む。図:ToL

品詞から、隠れた文まで

この発想から、本書は文法のほぼすべてを再導出していく。名詞と形容詞の違いは、実体として概念するか、様態として概念するかの違い(記事051)。動詞の本質は時制でも人称でもなく、「言い切る」こと——判断の作用そのものを担う点にある(記事052)。そして関係代名詞を含む複雑な文は、複数の判断が一つの文の中に畳み込まれたものとして分析される——「見えない神が世界を創った」という一文には、実は「神は見えない」「神が世界を創った」という二つの隠れた判断が畳み込まれている、という具合に(記事053)。

文法のあらゆる部品が、心の三作用のどれかに還元される——これが「一般理性文法」の名の由来である。個別の言語(フランス語、ラテン語、アラビア語……)の違いは、この共通の骨格に、それぞれ違う衣をまとわせているだけだ、と著者たちは考えた。

賭けの行方——300年後の読み直し

この賭けは、そのまま順風満帆に受け継がれたわけではない。18世紀には「一般文法」という潮流を生み、ヨーロッパの語学教育を150年近く形づくった。だが19世紀、実証を重んじる歴史・比較言語学が台頭すると、「机上の合理主義」として退けられる。

転機は1966年に来る。チョムスキーが『デカルト派言語学』で、ポール・ロワイヤルを生成文法の祖先と呼んだのだ。「隠れた文」の分析は深層構造と表層構造の先駆であり、心の構造が文法を決めるという発想は、生成文法の核そのものだ、とチョムスキーは読む。もっとも、この読み方には歴史家から強い異論もある——ポール・ロワイヤルの「深層」はデカルトの心理学というより、中世スコラの論理学(まさにアリストテレスの命題論の子孫)に近い、というのだ。どちらの読みを取るにせよ、ポール・ロワイヤルが問うたのは「この言語の規則は何か」ではなく「なぜ言語はこのかたちをしているのか」であり、その答えを「思考がこのかたちをしているからだ」に求めた点は変わらない。

この賭け——文法の形は、心の形の写しである——は、二つの方向に枝分かれしていく。一つは、この「心」を経験によらず生まれつき備わったものと見る道(第6章でチョムスキーが歩む道)。もう一つは、その手前で立ち止まり、「では、なぜある言語では心の同じ働きが、まったく違う文法として現れるのか」と問い直す道である。19世紀、この二つ目の問いを真正面から引き受けたのが、プロイセンの外交官にして言語学者、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトだった。