このサイトにはこれまで、九人(一組)の思想家を扱った特集がある——プラトン、アリストテレス、ポール・ロワイヤルのアルノーとランスロ、フンボルト、ソシュール、サピア、ウィトゲンシュタイン、チョムスキー、オースティン。それぞれ独立した特集として、原典に沿って読んできた。

だが九つを並べてみると、一本の問いが、形を変えながらずっと生き続けていることに気づく。言語とは、できあがった「もの」なのか、それとも今も続く「働き」なのか。名前や文が正しいのは、自然にそうだからか、それとも人間どうしの取り決めだからか。 この特集は、九つの特集をまたいで、その一本の問いの歴史を七つの章で描き直す試みである。個々の思想家の詳しい読解はすでにある各特集に譲り、ここでは思想と思想のあいだ——何が受け継がれ、何が反転したか——に焦点を当てる。

一本の問いが、二千三百年を貫く

年表に並べてみると、対象になる期間の長さにまず驚く。プラトンの『クラテュロス』は紀元前4世紀、オースティンの『言語と行為』は1962年——その間、およそ2300年。

前4世紀 プラトン 前4世紀 アリストテレス 1660 ポール・ロワイヤル 1836 フンボルト 1916 ソシュール 1921 サピア 1921/1953 ウィトゲンシュタイン 1957 チョムスキー 1962 オースティン 年表は見やすさのため間隔を詰めてある(実際の間隔とは比例しない)。とくにアリストテレスとポール・ロワイヤルのあいだは約1900年空いている。
「言語とは何か」を主題にした九つの仕事の年表。図:ToL

2300年のあいだ、当然、話される言語も、学問の道具立ても、まったく違うものになった。それでも、この九つを貫く問いのは驚くほど変わらない。プラトンが「名前の正しさ(ὀνόματος ὀρθότης)」と呼んだ問題は、アリストテレスでは「取り決めによる記号(σύμβολον κατὰ συνθήκην)」の話になり、ポール・ロワイヤルでは「文法は心を写すか」になり、フンボルトでは「言語は作品か働きか」になり、ソシュールでは「体系とは何か」になり、ウィトゲンシュタインでは「意味とは何か」になり、オースティンでは「言うことは、すでにすることなのか」になる。呼び名は変わっても、根にあるのは同じ問いである。

もう一つの軸——「もの」としての言語、「働き」としての言語

年代だけを並べても、なぜ考えがそちらへ動いたのかは見えてこない。もう一つ、時間を横に切る軸を立ててみる——言語を、固定された構造・実体として見るか、絶え間ない活動・行為として見るか、という軸だ。

構造・実体としてのことば できあがった、固定された体系(ergon) 働き・行為としてのことば 今も続く、生きた活動(energeia) アリストテレス——取り決めの記号 ポール・ロワイヤル——理性の鏡 ソシュール——差異の体系 チョムスキー——生得的な統語装置 フンボルト——エネルゲイア サピア——文化的パターン 後期ウィトゲンシュタイン——言語ゲーム オースティン——遂行文 前期ウィトゲンシュタイン(像の理論)→ 後期(言語ゲーム)
「構造・実体」と「働き・行為」——九つの思想を分ける、もう一つの軸。図:ToL

左側に並ぶのは、言語をすでにできあがった仕組みとして見る立場。アリストテレスは、ことばを「取り決めによる記号」と定義したうえで、真偽が宿る場所(主張文)を数え上げる——ここで言語は、分析できる対象として固定される。ポール・ロワイヤルは、あらゆる言語の背後に「一つの理性文法」があると見て、心の働きのとして文法を描く。ソシュールは、言語(langue)を個人の意志から切り離し、差異だけからなる体系として捉え直す。チョムスキーは、文法を心に生得的に備わった装置として扱う——意味からも、使用頻度からも自律した対象として。

右側に並ぶのは、言語を今も動き続ける働きとして見る立場。フンボルトは、言語は「作品(ergon)」ではなく「働き(energeia)」だと明言し、話すという行為そのものに言語の本質を置く。サピアは、言語を本能でも人種でもなく、共同体が担う文化的パターンとして描く。後期のウィトゲンシュタインは、語の意味を、辞書的な指示対象ではなく、生活の中での使用に見出す。オースティンは、その先へ一歩進めて、「言うこと」がそのまま「すること」になる文(遂行文)があると示す。

そして、この軸をまたいで動いた思想家が一人いる。ウィトゲンシュタインその人である。前期の『論理哲学論考』では、命題は現実を写すだと考えた——アリストテレスやソシュールに近い、構造の側の立場である。ところが後期の『哲学探究』では、その立場を自分で壊し、「意味とは使用である」という、右側の立場へと移る。一人の哲学者の中に、この特集全体が描く大きな振り子が、そのまま縮図として現れている。

七つの章

この先は、時系列に沿って七つの章に分けて読む。各章は独立して読めるが、通して読むと、一本の問いが姿を変えながら受け継がれていく様子が見えてくるはずだ。

  1. 問いの誕生——プラトンとアリストテレス
  2. 文法は心を写す——ポール・ロワイヤルの賭け
  3. 言語は「働き」である——フンボルトの転回
  4. 差異の体系へ——ソシュールと言語学の自立
  5. 本能でも人種でもない——サピアと複数の世界観
  6. 像から使用へ、そして行為へ——ウィトゲンシュタイン、チョムスキー、オースティン

まとめ

思想家(著作・年)言語とは構造か、働きか
プラトン(『クラテュロス』前4世紀)名前の正しさは自然か取り決めか——問いは未決のまま、道具説へ(問いの誕生)
アリストテレス(『命題論』前4世紀)取り決めによる記号。真偽は文にのみ宿る構造
ポール・ロワイヤル(『一般理性文法』1660)あらゆる言語の背後にある、心の働きを写す普遍文法構造
フンボルト(1836)「作品」ではなく「働き」。世界観を形づくる活動働き
ソシュール(『一般言語学講義』1916)差異だけからなる、共時的な体系構造
サピア(『言語』1921)本能でも人種でもない、文化的パターン働き寄り
ウィトゲンシュタイン(1921→1953)現実を写す像 → 意味とは使用である構造 → 働き
チョムスキー(『統辞構造論』1957)意味から自律した、生得的・生成的な統語装置構造
オースティン(『言語と行為』1962)言うことが、すでにすることである(遂行文)働き

一言でいえば——「言語とは何か」という問いに、最終的な答えはまだない。だが二千三百年のあいだ、思想はでたらめに動いてきたわけでもない。「もの」として固定しようとする動きと、「働き」として解き放とうとする動きが、交互に振り子のように現れ続けている。次の答えもまた、この振り子のどちらかから来るのかもしれない。