名詞と動詞を結び合わせると、文(λόγος)ができる。だが、文ならどれでも真偽をもつわけではない。アリストテレスは第4章で、そのふるい分けをする。
文(ロゴス)とは何か
まず文の定義。文は、名詞と違って部分が単独で意味をもつ。
Λόγος δέ ἐστι φωνὴ σημαντικὴ κατὰ συνθήκην, ἧς τῶν μερῶν τι σημαντικόν ἐστι κεχωρισμένον, ὡς φάσις, ἀλλ᾿ οὐχ ὡς κατάφασις ἢ ἀπόφασις.
文とは、取り決めによって意味する声であり、その部分のどれかが切り離しても意味をもつ——ただし言表としてであって、肯定や否定としてではない。(ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
そしてアリストテレスは、ここでプラトンに小さく釘を刺す。文は取り決めによって意味するのであって、「道具としてではない(οὐχ ὡς ὄργανον)」。『クラテュロス』は名前を「ものを分ける道具」とみなした(記事 038)。アリストテレスは、その道具モデルを退ける。言葉は、対象を切り分ける器具ではなく、取り決めで意味を担う記号だ。
文の枝分かれ
真偽をもたない文の例として、アリストテレスは祈りを挙げる。「祈りは文ではあるが、真でも偽でもない」。命令も問いも同じだ。それらは意味をもち、聞き手に働きかけるが、世界と照らして「当たっている/外れている」と言える種類のものではない。
Οἱ μὲν οὖν ἄλλοι ἀφείσθωσαν· ῥητορικῆς γὰρ ἢ ποιητικῆς οἰκειοτέρα ἡ σκέψις.
ほかの文は措いておこう。それらの考察は修辞学か詩学の領分だ。
いちばん単純な主張文は、「何かを何かについて」述べる(τὶ κατά τινος)——あるいは「何かから何かを」引き離す。「人間は白い」「人間は白くない」。ここではじめて、文は世界と突き合わされ、真か偽になる。
一つの主張文は、一つのことを言う
主張文には、動詞が要る。名詞をいくら並べても——「動物、二足、歩く」——それは一つの主張にならない。
Ἀνάγκη δὲ πάντα λόγον ἀποφαντικὸν ἐκ ῥήματος εἶναι ἢ πτώσεως ῥήματος.
すべての主張文は、動詞または動詞の格からできていなければならない。
そしてアリストテレスは、「一つの主張文(εἷς λόγος)」とは何かを問う。一つのことを述べるか、接続詞で一つに束ねられているか。ばらばらの主語・述語をつなげただけでは、複数の文であって一つではない。「命題の統一」というこの問いは、20世紀の分析哲学(フレーゲ、ラッセル)でもくり返し論じられる。真偽が宿るのは、この「一つの主張文」——その正確な形をアリストテレスはここで彫り出している。真であるとは、結合・分離がものの側の結合・分離に一致すること(第1章、『形而上学』第4巻でより明確に定式化される)。
「命題」という発明——と、その反動
真理の担い手は語でも心像でもなく、特定の形をした文である——この考えは、フレーゲの「思想(Gedanke)」と「主張のしるし(⊢)」を経て、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の「命題は現実の像である」に受け継がれる。現代論理学が「命題」から出発するのは、アリストテレスのこのふるい分けの子孫だ。
一方、アリストテレスが「修辞学へ」と脇へ置いたものは、脇に置かれたまま理論化されていった。ヘレニズム期のストア派は、「完全レクトン(意味されるもの)」を、言明(ἀξίωμα、真偽をもつもの)・問い・尋ね・命令・誓い・祈りなどに細かく分類した——アリストテレスが一括りにした非主張文を、すでに種類分けしていたのだ。20世紀にはオースティンが「約束する」「命じる」といった発話を、真偽では測れないが何かを行なう発話(行為遂行文)として引き受け直し、サールがそれを「断定型・指令型・拘束型・表出型・宣言型」に整理した。祈りや命令は、意味の劣った文ではなく、別種の仕事をする文だった——アリストテレスが引いた線の外側で、それが確かめられた。