前回はサピア『言語』(1921)の全体像を6つの主張にまとめた。ここからは本文を、やさしく順にたどる。前半は第1〜3章——言語とは何か、そして音とは何か

1. 歩くことと、話すこと

サピアは、いちばん身近な対比から始める。歩行は、子どもが生まれつき備えている生物学的な機能だ。筋肉も神経も、最初から歩くように作られている。社会を取り去っても、生き延びさえすれば子どもは歩けるようになる。

発話はそうではない。子どもが話せるようになるのは「自然のなかに生まれただけでなく、その伝統へ導くことがほぼ確実な社会のふところに生まれた」からにすぎない。生後すぐ別の社会へ移せば、歩き方はもとと同じに育つが、ことばは「完全に食い違う」。

Walking is an organic, an instinctive, function …; speech is a non-instinctive, acquired, “cultural” function.

歩行は有機的で本能的な機能であり、発話は非本能的で後天的な、“文化的”な機能である。(第1章。引用は原文、日本語は L/LAB 訳。以下同じ)

だから前回引いた定義になる——「言語とは、随意に産出される記号の体系によって、観念・感情・欲求を伝達する、純粋に人間的で非本能的な方法である」。

2. 叫び声は、ことばにならない

「言語は本能だ」と思わせる有力な観察が一つある。痛みや喜びのとき、私たちは思わず声を上げ、聞き手はそれを感情の表れと受け取る。だがサピアいわく、その種の発声と、観念を伝える通常の発話とのあいだには「世界のすべての違い」がある。叫び声は本能的だが非象徴的——「私はいま痛い」と告げるのではなく、感情エネルギーがあふれ出ただけ。誰かに宛てられてもいない。犬の吠え声や足音と同じく、ただ聞こえるだけだ。

では、辞書に載っている感嘆詞(oh! ah! sh!)はどうか。これは自然な音の慣習的な固定であって、言語ごとに違う。擬声語(cuckoo, 「to mew」)も、自然音の自動的な再現ではなく「人間の心の創作、空想の飛翔」だ。

ここでサピアは絵画を持ち出す。

葛飾北斎「凱風快晴」(冨嶽三十六景)。赤く染まった富士山を単純化した平面と輪郭で描く セザンヌ「大きな松のあるサント・ヴィクトワール山」。同じ山を色斑と筆触の積み重ねで描く
葛飾北斎「凱風快晴」(『冨嶽三十六景』、1830年ごろ)/ ポール・セザンヌ「大きな松のあるサント・ヴィクトワール山」(1887年ごろ、コートールド美術館)。ともにパブリックドメイン。同じ「山」を、異なる絵画的伝統が別の技法で写している。

A Japanese picture of a hill both differs from and resembles a typical modern European painting of the same kind of hill. Both are suggested by and both “imitate” the same natural feature. … The two modes of representation are not identical because they proceed from differing historical traditions, are executed with differing pictorial techniques.

山を描いた日本の絵は、同じ種類の山を描いた典型的な近代ヨーロッパの絵画に、似てもいるし違ってもいる。どちらも同じ自然の姿に促され、どちらもそれを”模倣”している。……二つの表現様式が同一でないのは、それらが異なる歴史的伝統から出て、異なる絵画技法で実行されているからだ。(第1章)

北斎の富士とセザンヌのサント・ヴィクトワールは、同じ「山」に促されながら、平面と輪郭の伝統、色斑と筆触の伝統という別々の技法で描かれている。どちらも山の「直接の産物」ではない。感嘆詞も同じだ——日本語と英語の間投詞は、共通の自然の原型(本能的な叫び)に促されて似ているが、「歴史的に異なる素材や技法、それぞれの言語伝統・音体系・発話習慣から作られている」から違う。「間投詞は、複雑な織物の装飾的な縁取りにすぎない」。言語の起源にはならない。

3. 「発音器官」というものはない

本来の機能 ――――――――――→ その上に「乗った」機能 肺 = 呼吸 歯 = 咀嚼 鼻 = 嗅覚 発話(overlaid function) 随意に使える器官は 二次目的に流用できる
肺は呼吸、歯は咀嚼のためにできた。発話はその上に「乗った」機能。図:L/LAB

「発音器官」と言うと、話すことが生物学的にあらかじめ定められた活動のように聞こえる。だがサピアは退ける——「厳密には、発音器官などというものは存在しない。発音に付随的に役立つ器官があるだけだ」。肺・喉頭・口蓋・鼻・舌・歯・唇はどれも発話に使われるが、それは「指がピアノ演奏の器官でなく、膝が祈りの器官でない」のと同じことだ。生理的に、発話は既存の器官の上に乗った機能(an overlaid function)。脳内に局在もしない——音は聴覚野に、動きは運動野に、他のあらゆる音や動きと同じ仕方で置かれているだけ。

4. ことばは、音ではない

「家(house)」という語が指すもの 無数の個別の体験 一般化 クラス=概念 「思考の便利なカプセル」 語「house」
語が結びつくのは単一の体験ではなく、体験のクラス(概念)。「経験の世界は、莫大に単純化され一般化されなければならない」。図:L/LAB

「house」という語は、その子音と母音が耳に与える音響効果ではないし、発音の運動でも、書かれた文字の視覚像でもない。それらが「家のイメージ」と純粋に象徴的に結びついたとき、はじめて語になる。しかも結びつく相手は単一の家ではない。単一の体験は「個人の意識に宿り、厳密には伝達不可能」だから、「経験の世界は、象徴の目録を作れるようになる前に、莫大に単純化され一般化されなければならない」。語が指すのは「概念、つまり無数の異なる体験を包み、さらに無数を取り込む用意のある、思考の便利なカプセル」だ。

そして、この記号体系は聴覚から視覚・運動へ一対一で転移できる(文字、手話、モールス信号=「記号の記号の記号」)。転移がこれほど容易だという事実そのものが、「音そのものは言語の本質ではなく、本質は分類・形式的パターン・概念の関係づけにある」ことを示す。サピアの一句——「言語は、その内側の面において、思考の鋳型である」。

語と思考の関係も同じ線上にある。言語は「本来は前理性的な機能」で、思考は「言語の最も潜在的な内容」。両者は同一ではないが不可分で、「道具が産物を可能にし、産物が道具を洗練する」。語は概念への「鍵」であり、同時に「足枷」でもある。

5. 音の背後にある「パターン」

客観的な音(精密な音声分析で得られる) …微妙な差が無数 理念的な音のパターン(話者の心のなかの体系) = 少数の「点」。番号・関係・働きの体系 パターンの変化は、音そのものの変化よりはるかに遅い。歴史的に関係する二言語が共通の音を一つも持たなくても、パターンは同一でありうる。
第3章の中心。客観的な音体系の背後に、より限定された「理念的な音のパターン」がある。図:L/LAB

話者は、自分の言語が「少数のはっきりした音」でできていると感じている。だが精密に分析すると、実際に使い分けられている音はずっと多い(英語話者の百人に一人も、sting の t が teem の t と別の音だと気づかない)。

サピアの重要な洞察はここだ——「純粋に客観的な音の体系の背後に、より限定された “内的” ないし “理念的” な体系がある」。それは話者にとって無意識だが、客観的な音そのものよりも意識に上りやすい、仕上がったパターン、心理的な機構だ。「歴史的に関係する二つの言語や方言が、共通の音を一つも持たなくても、その理念的な音体系は同一のパターンでありうる」。そしてパターンは音そのものよりはるかにゆっくり変わる

逸話がある。サピアが先住民に自分の言語を書かせると、「その言語のパターンの点」に当たらない差は——客観的にどれほど明白でも——聞き取って書き分けられない。ところが、ほとんど聞こえないほど微妙な差でも、それが「パターンの点」に当たっていれば、自発的に正確に書き分ける。「彼は、実際の話し声のざわめきを、理念的な音の流れとして聞き取り、それを書き写しているようだった」。

これはのちの音素の考え(プラーグ学派・アメリカ構造主義)の直接の先駆であり、記号は差異で働くというソシュールの見方とも響き合う。


後半(第4〜8章)では、かたち(形式と機能)・言語類型・ドリフトへ進む。全体像は「サピア『言語』を読む」へ。