『クラテュロス』の議論は、ヘルモゲネスの強い主張から始まる。名前とは取り決めであり、それ以上の「正しさ」はない。
ὅτι ἄν τίς τῳ θῆται ὄνομα, τοῦτο εἶναι τὸ ὀρθόν
誰かが何かに名前を定めたら、それが正しい名前だ。(ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
付け替えても構わない。奴隷の名を変えるように、後からの名も前の名に劣らず正しい、とヘルモゲネスは言う。
ヘルモゲネスの主張は、どこまで過激か
一見すると穏当な「取り決め説」だが、ヘルモゲネスの言い方はかなり踏み込んでいる。彼は、名前の正しさを個人のレベルまで下ろす。私が「これはウマだ」と決めれば、私にとってそれがウマの正しい名だ。あなたが別の名を当てれば、あなたにとってはそれが正しい。
ἐμοὶ μὲν ἕτερον εἶναι καλεῖν ἑκάστῳ ὄνομα, ὃ ἐγὼ ἐθέμην, σοὶ δὲ ἕτερον, ὃ αὖ σύ
私には、私が定めた別の名で一つ一つを呼ぶことが正しく、あなたには、あなたの定めた別の名が正しい。
これは「私的言語」の主張に近い。ソクラテスは後で、都市ごと・民族ごとに名前が違うという事実(ギリシア人と異邦人、ポリスとポリスのあいだ)は認める。だが「一人ひとりが勝手に名前を決めてよい」まで行くと、そもそも言葉が伝達の役に立たなくなる。ヘルモゲネスの立場は、その手前で踏みとどまれるのか——対話はそこを試していく。
背景には、当時さかんだった「フュシス(自然)かノモス(掟・取り決め)か」という論争がある。法や正義、社会の制度は、自然に定まっているのか、人が取り決めただけのものか。ソフィストたち(プロタゴラス、アンティフォンら)が好んで論じたこの主題を、『クラテュロス』は言語に当てはめている。名前は、正義や法と同じく「人が取り決めただけのもの」なのか。
ソクラテスの一手——「ものには在りかたがある」
ソクラテスは、まずヘルモゲネスをプロタゴラス的な相対主義に引き寄せ、そこを断つ。「人間は万物の尺度」——私に現れるとおりのものが私にとってのもの、という説を採るなら、賢者と愚者の区別もつかなくなる。ソクラテスはこれを認めない。ものは「それ自身の、在りかたの確かさ(βεβαιότητα τῆς οὐσίας)」を持つ。
ものの在りかたが定まっているなら、それを相手にする行為にも、当たりはずれがある。木は好きなように切れはしない。「私たちの思いなしにではなく、そのものの本性にしたがって(κατὰ τὴν φύσιν)」切ってこそ、切れる。焼くのも同じだ。適した道具を、適したやり方で使わないかぎり、行為はしくじる。
「語る」という行為、その正しいやり方
ここでソクラテスは、切ることや焼くことと同じ枠に「語ること(λέγειν)」を入れる。語ることも一つの行為(πρᾶξις)だ。ならば、正しいやり方と間違ったやり方がある。
ἐὰν μὲν ᾗ πέφυκε τὰ πράγματα λέγειν τε καὶ λέγεσθαι καὶ ᾧ, ταύτῃ καὶ τούτῳ λέγῃ, πλέον τέ τι ποιήσει καὶ ἐρεῖ· ἂν δὲ μή, ἐξαμαρτήσεται.
ものごとを、それが本性上「語り/語られる」しかたで、そのふさわしい手段によって語るなら、何ごとかを成し遂げ、言えたことになる。そうでなければ、しくじる。
そして「名づけること(ὀνομάζειν)」は、その語ることの一部分(μόριον)だ。「私たちは語を並べて(διονομάζοντες)文を語る」。部分にも全体と同じことが言える——名づけにも、当たりはずれがある。こうしてヘルモゲネスの「どう呼んでもよい」は退けられる。名前は、名づけられる対象の在りかたに縛られていて、話し手の自由にはならない。
注意したいのは、この段階でソクラテスが証明したのは「名づけには正しさがある」というところまでだ、という点だ。どんな名づけが正しいのか——似せることなのか、取り決めなのか、両方なのか——は、まだ何も言っていない。
「取り決め」には二つの意味がある
『クラテュロス』の議論がすれ違いがちなのは、「取り決め(συνθήκη)」という語が二つの違うものを指しうるからだ。
- その場の思いつき(fiat):どの音を当ててもよく、いつでも付け替えられる。ヘルモゲネスが冒頭で言っているのはこれに近い。
- 定着した制度(institution):いったん共同体に根づけば、個人の一存では動かせない、自己を保つ慣習。対話の終盤でソクラテス自身が「**慣れ(ἔθος)**も取り決めも、意味を伝えるのに要る」と認めるとき(記事 041)、念頭にあるのはこちらだ。
現代の言語哲学は、この二つを分ける。デイヴィッド・ルイス『コンヴェンション』(1969)は、convention を「恣意的だが自己を維持する規則性」と定義した——起源はどの選択でもよかったが、いったん皆がそれに従えば、逸脱する理由がなくなる。ソシュールの「記号の恣意性」も、実は「勝手に変えられる」という意味ではない。個々の記号は動機を欠くが、共同体に対しては強制的だ、と彼は強調する。『クラテュロス』は、この区別をまだ持たないまま、両方の意味のあいだを行き来している。
ただし、自然説の勝ちではない
フュシス(自然)かノモス(取り決め)か——ソクラテスはこの二択を、最後まで単純には選ばない。「名前は道具」という議論(記事 038)でいったん自然説へ傾き、語源と文字の音(記事 039・記事 040)でさらに踏み込み、そして終盤でその強い形を批判する(記事 041)。
言語をめぐる「自然か取り決めか」の論争は、ここで終わらなかった。ヘレニズム期には、エピクロス派が「名前は自然発生的(人間の感情の発露から)」と説き、ストア派が両者を折衷した。近代言語学が「記号は恣意的だ」と言い切るのは、2300年越しにヘルモゲネスの側へ軍配を上げることだ。だが『クラテュロス』自身は、その判定を保留したまま、「名前から真理を学べるか」というもっと厄介な問いへ進む。