語源分解は、名前を別の名前へと分けていく。だが、どこかで「それ以上分解できない名前」に行き当たる。これをソクラテスは「一次の名(τὰ πρῶτα ὀνόματα)」と呼ぶ。一次の名は、他の名を部品にできない。ではどうやって対象を表すのか。
もし声がなかったら——身ぶりの議論
ソクラテスの答えはミメーシス(まね)である。彼はまず、声を使わない場合を考えさせる。声も舌もなかったら、私たちは体で伝えようとするだろう。
εἰ μέν γʼ οἶμαι τὸ ἄνω καὶ τὸ κοῦφον ἐβουλόμεθα δηλοῦν, ᾔρομεν ἂν πρὸς τὸν οὐρανὸν τὴν χεῖρα, μιμούμενοι αὐτὴν τὴν φύσιν τοῦ πράγματος.
「上」や「軽い」を示したければ、天のほうへ手を挙げただろう——そのものの本性そのものを、まねて。(ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)
「下」「重い」なら地のほうへ。馬を示したければ体を馬に似せる。声を使ういまも、原理は同じだ。名前とは、身ぶりでする模倣を声でやったものにほかならない。
ὄνομʼ ἄρʼ ἐστίν, ὡς ἔοικε, μίμημα φωνῇ ἐκείνου ὃ μιμεῖται
名前とは、どうやら、まねる対象を声でまねたものだ。
ただし、身ぶりのように形をまねるのではない。文字(γράμματα)と音節で、対象の在りかた(οὐσία)をまねる。だから名づけ手(ὀνομαστικός)は、画家や音楽家と同じく「似せる技」を持つ職人の一人だ、とソクラテスは位置づける。画家が色で対象に似せ、音楽家が音の高さで似せるように、名づけ手は文字の音で似せる。
文字の音価と、その研究計画
いちばん詳しく論じられるのが ρ(ロー)だ。発音すると舌が最も激しくふるえる。だから運動を表すのにふさわしい、という。
τὸ δὲ οὖν ῥῶ τὸ στοιχεῖον, ὥσπερ λέγω, καλὸν ἔδοξεν ὄργανον εἶναι τῆς κινήσεως τῷ τὰ ὀνόματα τιθεμένῳ πρὸς τὸ ἀφομοιοῦν τῇ φορᾷ
だから文字の ρ は、いま言ったように、名前を定める者にとって、運動を表す良い道具に見えた——名前を「動き」に似せるための道具に。
λ(ラムダ)は逆に、舌がなめらかにすべる。だから「なめらか(λεῖος)」「すべる(ὀλισθάνειν)」といった語に入る。ι は細く通り抜けるもの、ν は内側、α は大きさ、ο は丸さ。
ソクラテスは、これをきちんとやるには研究計画が要る、とも言う——まず音を種類分けし(母音・半母音・無音)、次に「もの」を種類分けし、どの音がどの種類に似合うかを見きわめる。ちょうど画家が絵の具を混ぜて色を作るように、名づけ手は文字を混ぜて名を作る。ただしソクラテス自身は、この計画をスケッチするだけで、実行はしない。
それは自分の理屈で崩れる
面白いのは、この音象徴論が、同じ対話のなかで足元から崩れることだ。ギリシア語で「硬い(σκληρόν)」を意味する語には λ が入っている。音象徴の理屈では λ は「なめらかさ」——正反対だ。それでも私たちは「硬い」と聞いて硬さを理解する。なぜか。クラテュロスは「**慣れ(ἔθος)**のおかげだ」と答える。ソクラテスはすかさず「慣れは取り決めと何が違うのか」と返す(記事 041)。似せることだけでは名前は成り立たず、取り決めが働いている——ソクラテスは音象徴論を立てておきながら、その限界を自分で示す。
その後——音象徴とソシュール
『クラテュロス』のこの一節は、西洋で最初の音象徴論(音そのものが意味を帯びるという説)である。20世紀以降、実験的に追いかけられてきた。
- イェスペルセンは、前舌母音 i が「小さい」を示す傾向を指摘した(英 little、仏 petit、伊 piccolo)。
- サピア(1929)は、
milとmalのどちらが「大きいテーブル」に合うかを被験者に選ばせ、母音の傾向を示した。 - ケーラーの図形実験は、とがった形を「キキ(takete)」、丸い形を「ブーバ(maluma)」と結びつける傾向を見出し、ラマチャンドランらが「ブーバ/キキ効果」として再検証した。
- ブラジら(2016)は、数千言語の基礎語彙を調べ、「鼻」に n、「舌」に l、「小さい」に i といった音と意味の結びつきが、系統や地域を越えて統計的に現れることを示した。
- 日本語の擬態語(きらきら、ぬるぬる、ごつごつ)は、音象徴が文法的に生産的に働く例として、しばしば研究の対象になる。
だが近代言語学は逆の道を選んだ。ソシュールは「記号の恣意性」を一般言語学の第一原理に据え、音と意味のあいだに自然なつながりはない、と説く。彼はその原理に、擬音語や間投詞という例外を脚注で認めつつ、それらは言語の周縁だとした。『クラテュロス』のこの一節は、ソシュールが乗り越えようとした相手そのものだ——そしてソクラテス自身も、この直後に、音のまねだけでは名前は成り立たないと認めはじめる。