語源分解は、名前を別の名前へと分けていく。だが、どこかで「それ以上分解できない名前」に行き当たる。これをソクラテスは「一次の名(τὰ πρῶτα ὀνόματα)」と呼ぶ。一次の名は、他の名を部品にできない。ではどうやって対象を表すのか。

もし声がなかったら——身ぶりの議論

ソクラテスの答えはミメーシス(まね)である。彼はまず、声を使わない場合を考えさせる。声も舌もなかったら、私たちは体で伝えようとするだろう。

εἰ μέν γʼ οἶμαι τὸ ἄνω καὶ τὸ κοῦφον ἐβουλόμεθα δηλοῦν, ᾔρομεν ἂν πρὸς τὸν οὐρανὸν τὴν χεῖρα, μιμούμενοι αὐτὴν τὴν φύσιν τοῦ πράγματος.

「上」や「軽い」を示したければ、天のほうへ手を挙げただろう——そのものの本性そのものを、まねて。(ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)

「下」「重い」なら地のほうへ。馬を示したければ体を馬に似せる。声を使ういまも、原理は同じだ。名前とは、身ぶりでする模倣を声でやったものにほかならない。

ὄνομʼ ἄρʼ ἐστίν, ὡς ἔοικε, μίμημα φωνῇ ἐκείνου ὃ μιμεῖται

名前とは、どうやら、まねる対象を声でまねたものだ。

ただし、身ぶりのように形をまねるのではない。文字(γράμματα)と音節で、対象の在りかた(οὐσία)をまねる。だから名づけ手(ὀνομαστικός)は、画家や音楽家と同じく「似せる技」を持つ職人の一人だ、とソクラテスは位置づける。画家が色で対象に似せ、音楽家が音の高さで似せるように、名づけ手は文字の音で似せる。

文字の音価と、その研究計画

文字 舌・息の動き 表す性質 ソクラテスの例 ρ舌が最もふるえる運動・流れῥεῖν(流れる), τρόμος(震え) λ舌がすべるなめらかさλεῖος(なめらか), ὀλισθάνειν(すべる) ι細く通る音通り抜ける細いものἰέναι(行く) ν音が内にこもる内側ἔνδον(内に), ἐντός(内部) α, η大きく開く/長い大きさ・長さμέγα(大きい), μῆκος(長さ) ο丸めて出す丸さγογγύλον(丸い) 名づけ手は各文字を「ものの特徴のしるし(σημεῖον)」とし、それらを組み合わせて一次の名を作る(426c–427c)。
ソクラテスの音象徴の見取り図。発音するときの舌や息の動きが、その文字の「意味」を決める。図:L/LAB

いちばん詳しく論じられるのが ρ(ロー)だ。発音すると舌が最も激しくふるえる。だから運動を表すのにふさわしい、という。

τὸ δὲ οὖν ῥῶ τὸ στοιχεῖον, ὥσπερ λέγω, καλὸν ἔδοξεν ὄργανον εἶναι τῆς κινήσεως τῷ τὰ ὀνόματα τιθεμένῳ πρὸς τὸ ἀφομοιοῦν τῇ φορᾷ

だから文字の ρ は、いま言ったように、名前を定める者にとって、運動を表す良い道具に見えた——名前を「動き」に似せるための道具に。

λ(ラムダ)は逆に、舌がなめらかにすべる。だから「なめらか(λεῖος)」「すべる(ὀλισθάνειν)」といった語に入る。ι は細く通り抜けるもの、ν は内側、α は大きさ、ο は丸さ。

ソクラテスは、これをきちんとやるには研究計画が要る、とも言う——まず音を種類分けし(母音・半母音・無音)、次に「もの」を種類分けし、どの音がどの種類に似合うかを見きわめる。ちょうど画家が絵の具を混ぜて色を作るように、名づけ手は文字を混ぜて名を作る。ただしソクラテス自身は、この計画をスケッチするだけで、実行はしない。

それは自分の理屈で崩れる

面白いのは、この音象徴論が、同じ対話のなかで足元から崩れることだ。ギリシア語で「硬い(σκληρόν)」を意味する語には λ が入っている。音象徴の理屈では λ は「なめらかさ」——正反対だ。それでも私たちは「硬い」と聞いて硬さを理解する。なぜか。クラテュロスは「**慣れ(ἔθος)**のおかげだ」と答える。ソクラテスはすかさず「慣れは取り決めと何が違うのか」と返す(記事 041)。似せることだけでは名前は成り立たず、取り決めが働いている——ソクラテスは音象徴論を立てておきながら、その限界を自分で示す。

その後——音象徴とソシュール

『クラテュロス』のこの一節は、西洋で最初の音象徴論(音そのものが意味を帯びるという説)である。20世紀以降、実験的に追いかけられてきた。

だが近代言語学は逆の道を選んだ。ソシュールは「記号の恣意性」を一般言語学の第一原理に据え、音と意味のあいだに自然なつながりはない、と説く。彼はその原理に、擬音語や間投詞という例外を脚注で認めつつ、それらは言語の周縁だとした。『クラテュロス』のこの一節は、ソシュールが乗り越えようとした相手そのものだ——そしてソクラテス自身も、この直後に、音のまねだけでは名前は成り立たないと認めはじめる。