『クラテュロス』の中央部(391–427)は、ソクラテスによる語源分解のカタログである。140ほどの名前が、次々に部品へばらされる。現代の言語学から見れば、その大半は語源として成り立たない。だが、狙いは別のところにある。名前がどんな理論を宿しているのかを、こじあけて見せることだ。

三つの実例

Ζεύς(ゼウス)= 一つの名だが二形に分かれる Ζῆνα(ゼーナ、対格) → ζῆν「生きる」 Δία(ディア、対格) → διά「〜を通じて」 「それを通じて、生きとし生けるものが 生きる」もの=万物の王 名前を「一つの文(λόγος)」として読み、二つに割って主題を取り出す——ソクラテスの手つき(396a–b)。
ゼウスの名の分解。ソクラテスは名前を圧縮された小さな文とみなし、割って意味を読み出す。図:L/LAB

名前に埋め込まれた世界観

最初の名づけ手 「万物は流れ、動く」 という世界観を持つ 名前 「流れ」「運動」を語根に =理論の化石 後の話し手 名前ごと世界観を継ぐ 注記:もし最初の名づけ手が世界を取り違えていたら—— その誤りも、名前を通じてそっくり受け継がれる(436b)。 語源が一致することは、その世界観が正しいことの証拠にはならない。
語源部の要点。名前は、それを作った人々の理論を宿す。だが宿された理論は、検証されていない。図:L/LAB

ばらばらに見える語源に、一つの傾向がある。運動と流れだ。ソクラテスの分析では、徳や知にかかわる多くの語が「進む」「流れる」「回る」を語根に持つ。彼はこう総括する。

ὡς ἰόντων ἁπάντων ἀεὶ καὶ ῥεόντων

あたかも万物がつねに進み、流れているかのように。(ギリシア語引用の日本語訳・英訳は L/LAB による。以下同じ。)

つまり最初の名づけ手たちは、ヘラクレイトス的な「万物流転」の世界観を持っていて、それを名前に刻み込んだ——ソクラテスはそう見立てる。名前は、作られた時代の理論の化石なのだ。

ここには仕掛けがある。対話の相手クラテュロスは、歴史上、ヘラクレイトス派の人物だった(アリストテレス『形而上学』によれば、彼は「同じ川には一度も入れない」とまで言い、晩年は言葉を使わず指さすだけになったという)。つまりソクラテスは、名前の中からクラテュロス自身の世界観を読み出してみせ、そのうえで(記事 041)その世界観そのものを批判する。語源部は、後半の反論への長い助走なのだ。

神々の名——ソクラテスの逃げ道

ソクラテスは神々の名を分解する前に、二重の留保を置く。第一に「私たちは神々について何も知らない。神々自身についても、神々が自分をどう呼んでいるのかについても」——真の名を知るのは神々だけだ。第二に、だから私たちは「祈りのときの慣わし」にならって、神々が呼ばれて喜ぶ名で呼ぶほかない。そのうえで彼は、検討の対象を人間がどんな考えで神々に名を与えたかに限定する。「それなら、とがめられまい(ἀνεμέσητον)」。神学的な深追いを避けつつ、名前を「人間の思いなしの記録」として読む構えである。

冗談か、本気か

この長い実演をどう読むかで、対話全体の印象が変わる。

どの読みを取っても、対話が次に打つ一手は同じだ。もし最初の名づけ手が世界を取り違えていたら?

ὁ θέμενος πρῶτος τὰ ὀνόματα, οἷα ἡγεῖτο εἶναι τὰ πράγματα, τοιαῦτα ἐτίθετο καὶ τὰ ὀνόματα

最初に名前を定めた者は、ものごとをこうだと思ったとおりに、名前もそう定めた。

その思い込みが誤りなら、名前に従う私たちも同じ誤りへ導かれる。語源が世界観を語ること自体は、その世界観の正しさを何も保証しない——この気づきが、記事 041の批判へつながる。