概説記事で触れたとおり、『言海』の編纂は、大槻文彦個人の思いつきではなく、文部省という国家機関からの命令として始まった。その事情を語る一節を、原文で読む。
「大槻文彦一人」——序文の末尾に記された事実
『言海』巻頭の「言海序」は、文部省編輯局長・西村茂樹による、漢文体の序文である。その末尾で、西村はこう書き記している。
本篇任編輯之事者、大槻文彦一人。而若余者、特止監視其事業爾。
(本書の編纂の任にあたった者は、大槻文彦、ただ一人である。私のような者は、ただその事業を監督するにとどまったにすぎない。)
明治18年(1885年)4月付、「文部省編輯局長 正五位勲三等 西村茂樹識」という署名とともに記されたこの一文は、この事業が、国家機関である文部省の名のもとに始まりながら、実際の作業のすべてが、大槻という一人の人間の手に委ねられていたという事実を、監督者自身の言葉で裏づけている。
「まだ西洋と並び立つには早い」という、率直な自己評価
西村の序文は、さらに踏み込んだ評価も書き残している。
此書盖追逐西國辭書之第一歩、而至其與西人並鑣而馳者、猶有待於後來焉。
(この書物は、いわば西洋の辞書を追いかける第一歩であって、西洋人と馬を並べて走るような域に達するのは、なお後の世代を待たねばならない。)
この一文には、誇張のない、率直な自己評価が表れている。『言海』は、西洋の辞書に匹敵する完成品としてではなく、その方向へ向かう「第一歩」として、あえて控えめに位置づけられている。 この序文が書かれた1885年の時点では、まだ本文の編纂すら完了していなかった——実際の刊行は、それから4年後の1889年にずれ込んでいる。
国語政策とのつながり、そして次の世代へ
『言海』の編纂が文部省の事業として始まったこと自体、明治政府が、近代国家の基盤として「国語」を整備しようとしていたことの表れである。江戸時代までの日本には、統一された「標準語」という発想そのものが希薄だった。学校教育・新聞・法律文書を、全国で通じることばで統一する必要に迫られた明治政府にとって、規範となる国語辞典の整備は、避けて通れない課題だった。
この国語政策の流れは、大槻の少しあとの世代——この特集群で別に扱う上田万年のような人物によって、「標準語」の制定や言文一致運動として、さらに本格的に推し進められていく。また、大槻自身も、『言海』の刊行後、その内容をさらに大幅に増補した『大言海』の編纂に晩年まで取り組み続けた(未完のまま没し、没後に弟子たちの手で刊行された)。一人の手で始まった仕事は、こうして、次の世代、そして自分自身のその後の人生にまで、長く尾を引いていくことになる。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 事業の性格 | 文部省という国家機関の命によって始まった、国家事業としての辞書編纂 |
| 実務の担い手 | 監督者・西村茂樹自身の言葉で「大槻文彦一人」と明記されている |
| 自己評価 | 西洋の辞書に並ぶのは「なお後の世代を待たねばならない」という、控えめな位置づけ |
| その後 | 明治の国語政策の流れへ、そして大槻自身による『大言海』の編纂へ続く |
一言でいえば——『言海』は、国家が命じ、一人の人間がすべてを背負いきった仕事だった。その率直な自己評価どおり、「第一歩」はここから、次の世代へと引き継がれていく。