序文の冒頭で、ブルークマンはまず、なぜこの本が必要なのかを説明する。その中で、シュライヒャーの特集で読んだ『比較文法要覧』への、率直な評価が語られる。
「優れた本」だが、もう古い
Wurde doch das vortreffliche Schleicher’sche Compendium… bereits im J. 1876… von den beiden Herausgebern einer völligen Umarbeitung bedürftig erachtet.
(実際、シュライヒャーのあの優れた『要覧』でさえ……すでに1876年の時点で……その二人の〔没後の〕編集者によって、全面的な書き直しが必要だと判断されていたのである。)
ブルークマンは、シュライヒャーの本を「vortrefflich」(優れた、卓越した)という、率直な賛辞の言葉で評している。批判のための批判ではない。ただ、どれほど優れた本であっても、20年という歳月のあいだに学問が進めば、書き直しを避けられないという、素朴な事実を述べているにすぎない。シュライヒャー自身が死の直前まで改訂を重ねていたにもかかわらず、その2度の改訂ですら、もはや追いついていなかった。
自分の本を、どこに置くか
続けて、ブルークマンは、自分の記述スタイルを、二人の先人と比較しながら説明する。
Meine Darstellungsweise hält etwa die Mitte zwischen derjenigen der Bopp’schen Vergleichenden Grammatik… und derjenigen des Schleicher’schen Compendiums… Sie sucht die Vorzüge beider zu vereinigen.
(私の叙述の仕方は、ボップの『比較文法』のそれと、シュライヒャーの『要覧』のそれとの、ちょうど中間に位置する。……私はこの叙述法によって、両者の長所を統合しようと試みている。)
この一文の直前で、ブルークマンは二人の方法の違いをこう説明している——ボップの『比較文法』は、個々の言語の特徴をインド・ゲルマン語全体のなかに溶け込ませていく、ひとまとまりの流れるような記述である。それに対して、シュライヒャーの『要覧』は、個々の言語文法を、ほぼ独立したまま、いわば数珠つなぎに並べただけのものだ、と。
三者三様の記述スタイル
ブルークマン自身の言葉によれば、この二つのスタイルには、それぞれ長所と短所がある。ボップ流の「溶け込ませる」記述は、言語全体のつながりが見えやすい一方、個別言語の細部が埋もれやすい。シュライヒャー流の「数珠つなぎ」の記述は、個別言語の特徴を追いやすい一方、言語どうしのつながりが見えにくい。ブルークマンは、この両方の長所を統合しようとした、と述べている。
批判ではなく、継承としての自己位置づけ
この一節で注目すべきなのは、ブルークマンが、先人たちを「乗り越えるべき過去の遺物」としてではなく、それぞれに固有の長所を持つ、参照すべき先例として扱っている点である。青年文法学派は、しばしば過去の世代との断絶を強調するイメージで語られがちだが、この序文を読むかぎり、ブルークマン自身の自己認識は、むしろ「先人たちの遺産を、どう統合し直すか」という、地に足のついたものだった。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| シュライヒャー評 | 「優れた本」だが、20年の学問の進歩に追いつけなくなっていた |
| 自己位置づけ | ボップの流れる記述と、シュライヒャーの数珠つなぎの記述の、ちょうど中間 |
| 姿勢 | 先人を乗り越えるべき対象としてではなく、長所を引き継ぐべき先例として扱う |
一言でいえば——ブルークマンは、自分の本を白紙から作られた革命の書としてではなく、ボップとシュライヒャー、二つの伝統を統合する試みとして、率直に位置づけていた。