前の記事で見たとおり、青年文法学派は、あらゆる例外に理由を求めた。その理由探しのなかで、彼らが音法則と並ぶもう一つの大きな原動力として重視したのが「類推」(アナロジー)である。
子どもの言い間違いから考える
小さな子どもが、こんな言い方をすることがある。「行った」の形を真似て、「食べった」「見った」と言ってしまう。これは、単なるでたらめな間違いではない。子どもは、すでに知っている動詞の変化パターン(「行く」→「行った」)を、まだよく知らない別の動詞にも当てはめているのである。
日本語には、これによく似た変化が、大人の話し言葉のなかにも実際に起きている。「見られる」「食べられる」という、本来「られる」を使う可能能形が、「見れる」「食べれる」という「ら抜き言葉」に変わっていく現象である。これは、「読む」→「読める」のような、別のグループの動詞がもともと持っていた、より単純な可能形のパターンが、じわじわと広がっていった結果だと考えられている。
音の変化ではなく、パターンの模倣
ここが重要な点である。音法則にもとづく変化は、特定の音が、機械的・無意識的に、時間をかけて少しずつ形を変えていく現象である。それに対して、類推による変化は、話し手が(多くは無意識のうちに)「この単語も、あのグループと同じパターンに当てはめよう」と、既存の型を借りてくる現象である。前者は音そのものの変化、後者は形のパターンの伝染、と言ってもよい。
なぜ「例外」に見えるのか
音法則だけで言語の歴史をすべて説明しようとすると、類推によって生まれた形は、決まって「例外」に見えてしまう。なぜなら、その形は、音の規則ではなく、別のパターンの模倣によって生まれたものだからである。ブルークマンの世代は、「音法則」と「類推」という二つの原動力をセットで扱うことによって、初めて、これまで説明のつかなかった多くの「例外」に、体系的な理由を与えることができるようになった。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 音法則による変化 | 音そのものが機械的に、時間をかけて変化する |
| 類推による変化 | 既存の語形パターンを、話し手が別の語にも当てはめる |
| 身近な例 | 子どもの言い間違い、「ら抜き言葉」のような、可能形の単純化 |
| 帰結 | この二つを組み合わせることで、多くの「例外」に理由が見つかる |
一言でいえば——言語は、音の法則だけでなく、話し手が知っているパターンをほかの語にも広げていく力によっても、絶えず書き換えられている。