概説記事で触れたとおり、「祖語の故郷」をめぐる議論には、危険な政治利用の歴史がある。アンソニーは、結びの章で、自分自身の方法がなぜその轍を踏まずに済むと考えるのか、率直に語っている。
想像力だけでは、歴史は語れない
A convincing narrative about the speakers of Proto-Indo-European must today be pegged to a vast array of archaeological facts, and it must remain un-contradicted by the facts that stand outside the chosen narrative path.
(印欧祖語の話し手についての、説得力のある物語は、今日では、膨大な数の考古学的事実という杭に打ち付けられていなければならない。そして、自分が選び取った物語の筋道の外側に立つ事実によって、反証されないままでなければならない。)
「杭に打ち付けられている」(pegged) という比喩が印象的である。物語(narrative)は、それ自体としては自由に動きうる、風に流されやすい布のようなものだ。しかし、その布を、あちこちの杭——一つ一つの考古学的事実——にしっかりと打ち付ければ、もはや自由には動けなくなる。杭の数が多ければ多いほど、そして杭の種類(年代測定、動物の骨、遺物、語彙の分布)が多様であればあるほど、その物語が誤りである可能性は下がっていく。
なぜ、この自戒が必要だったのか
この一文の直前で、アンソニーは、20世紀前半のアーリア人幻想——物証がほとんどないまま、言語学的な憶測だけで作り上げられた、人種主義的な「祖語の話し手」像——について触れている。当時は、想像力を抑制する「杭」が、ほとんど存在しなかった。 断片的な言語学的証拠に、古典文献への憧れと、社会ダーウィニズムの偏見が上乗せされ、都合のよい物語がいくらでも作れてしまった。
アンソニーの立場は、この失敗への直接の応答である。彼は、自分の本が大量の考古学的細部——放射性炭素年代、動物の骨の統計、墓の副葬品、集落の規模——で埋め尽くされていることを、読みにくさの弁明としてではなく、方法論的な誠実さの証として提示している。
反証可能性という、科学の基本姿勢
この一節は、実のところ、科学哲学の基本的な考え方——ある主張は、反証されうる形で提示されて初めて、科学的な主張と呼べる——を、考古学の言葉で言い換えたものである。アンソニーが「杭」の比喩を使うことで伝えようとしているのは、自分の物語が「正しい」という保証ではなく、自分の物語が「間違っていれば、いずれ誰かがそれを示せる」という保証である。この謙虚さこそが、想像力だけで組み立てられた過去のアーリア人幻想と、アンソニー自身の再構成とを、決定的に分けている。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 引用の要旨 | 説得力のある物語は、多数の考古学的事実という杭に打ち付けられていなければならない |
| 対比される失敗 | 20世紀前半のアーリア人幻想——物証の杭がほとんどない、憶測だけの物語 |
| 姿勢の核心 | 「正しい」という保証ではなく、「間違っていれば反証できる」という保証を求める |
一言でいえば——アンソニーにとって、良い物語とは、想像力が豊かな物語ではなく、事実という杭に、逃げ場なく打ち付けられた物語だった。