概要記事で見たとおり、遂行文と事実確認文の区別が行き詰まったあと、オースティンは第8講でもっと広い一般理論に踏み出す。文法や語彙という表面の手がかりに頼るのをやめ、代わりに「一つの発話に、実は何種類の行為が同時に含まれているか」という、根っこの問いに立ち返るのだ。ここではその内実——三つの行為それぞれが実際どう定義され、どこで境目がぼやけるか——を掘り下げる。
1. 「発語行為」は、それ自体が三層でできている
オースティンはまず、いちばん基礎になる「発語行為」(locutionary act)を、「この完全に通常の意味での『何かを言う』という行為」と定義する。だがこの発語行為そのものが、さらに三つの下位の行為に分けられる、とオースティンは続ける。音声を発するだけの「音声行為(phonetic act)」、その音声を特定の言語の語彙・文法に従って発する「用語行為(phatic act)」、そしてその語に意味(センスと指示)を持たせて発する「意味行為(rhetic act)」。音声行為は、いわば録音機でも果たせる水準の行為であり、話し手が特定の言語の話し手であることすら要求しない。用語行為になって初めて、その音が「英語の、しかも文法にかなった単語列」だという資格を得る。そして意味行為になって初めて、その単語列は特定の何かについて特定の何かを言うものになる。たとえば、誰かの発言を引用符つきでそっくりまねる(形態模写)ことは用語行為の水準では可能だが、意味行為の水準の再現ではない——小説の中で「彼女は『きれいな髪ね』と言った」と書くとき、それは用語行為の引用にすぎず、間接話法「彼はその猫がマットの上にいると言った」に言い換えられて初めて、意味行為の水準の報告になる。この三段構えは、一見細かい区分けに見えるが、あとで発語内行為・発語媒介行為を論じるときの土台になる——「何を言ったか」(発語行為)が定まったあとにしか、「それをどう言ったか」(発語内行為)は問えないからだ。
2. 発語内行為——「力」と「意味」を分ける
発語行為(何を言ったか、意味)を確定させても、その発言がどう使われているかという、まったく別の問いが残る。忠告なのか、単なる示唆なのか、命令なのか——同じ語の並びが、状況しだいでまったく違う働きをする。
I explained the performance of an act in this new and second sense as the performance of an ‘illocutionary’ act … I shall refer to the doctrine of the different types of function of language here in question as the doctrine of ‘illocutionary forces’. (私はこの新しい第二の意味での行為の遂行を、「発語内」行為の遂行として説明した……ここで問題になっている言語のさまざまな機能の類型についての学説を、私は「発語内の力」の学説と呼ぶことにする。)
なぜわざわざ「力」という新しい語を立てる必要があるのか。ここでオースティンは、意味(センスと指示)と、力(フォース)とを、はっきり分けるべきだと強調する。「彼はそれを命令として言った」という言い方があるように、私たちは日常、「意味」ということばを発語内の力についても使ってしまいがちだ。だが「あなたは出ていくだろう」という一つの発語行為(意味は変わらない)は、警告として言われることも、予測として言われることも、脅しとして言われることもある——意味は同じでも、力はまったく違う。この二つを混同したまま議論を進めると、力の違いをすべて「意味の違い」の名の下に押し込めてしまい、力そのものの分類が見えなくなる、というのがオースティンの警告である。
裏を返せば、力の違いは意味の違いに還元できないからこそ、独立した分類の対象になりうる。最終講で試みられる五分類(判定・権能行使・約束・態度表明・言明)は、まさにこの「力」だけを軸にした分類であり、意味の分類(辞書の仕事)でも、統語の分類(文法書の仕事)でもない、新しい種類の仕事だった。
さらに、発語内行為には慣習が関わっている——オースティンは「発語内行為は慣習的な行為である、ある慣習に従うものとして行われる行為だ」と念を押す。
3. 発語媒介行為——「議論する」とは言えても「説得する」とは言えない
発語行為と発語内行為の境目もあやふやなら、発語内行為と発語媒介行為の境目も一見あやふやに見える。だがオースティンは、この二つを見分ける実用的な目印を示す。
… the former may, for rough contrast, be said to be conventional, in the sense that at least it could be made explicit by the performative formula; but the latter could not. Thus we can say ‘I argue that’ or ‘I warn you that’ but we cannot say ‘I convince you that’ or ‘I alarm you that’. (……前者は、大まかな対比で言えば慣習的である——少なくとも遂行文の定型句によって明示できるという意味で。だが後者はそうできない。実際「私は議論する」「私はあなたに警告する」とは言えるが、「私はあなたを説得する」「私はあなたを怖がらせる」とは言えない。)
「私は〜する」という遂行文の型に収まるかどうか——これが、発語内行為(議論する、警告する)と発語媒介行為(説得する、怖がらせる)を見分ける、簡便だが有効な目印になる。前者は話し手が引き受ける行為であり、後者は聞き手の側に生じる結果なのだ。
4. 「本気ではない」使い方——詩とジョーク
三分類のどこにも収まりにくい、もう一つの層がある。オースティンは、言語には「本気ではない」「完全な通常の用法ではない」寄生的な使い方もあることを指摘する——指示についての通常の条件が宙づりにされたり、標準的な発語媒介行為がそもそも試みられなかったりする使い方だ。例に挙げるのは、ウォルト・ホイットマンの詩。「自由の鷲よ、舞い上がれ」と呼びかけても、詩人は本気で鷲に何かをさせようとしているわけではない、というのがオースティンの言い分である。これは発語媒介行為が意図的に宙づりにされた、言語の「寄生的」な使用にほかならない。
同じように扱いにくい行為が、ほかにもいくつかある。誰かをほのめかすことは、遂行文の定型句を持たない——「私はほのめかします」とは、ふつう言えない。誓いの言葉として悪態をつくことも、それに近い。オースティンはこうした行為を、ジョークや演技、詩作とあわせて、三分類のどこにもきれいには収まらない、さらに検討すべき領域として率直に開いたままにしている——分類がすべてを覆い尽くすと主張しないところに、この理論の誠実さがある。
こうして見ると、発語行為・発語内行為・発語媒介行為という三分類は、きれいに切り分けられた三つの箱というより、一つの発話を三つの違う角度から眺めるための、三通りの問いの立て方に近い——「何を言ったか」「それで何をしたか」「それによって何が起きたか」。三つは互いに独立した部品ではなく、同じ一つの発話を、光の当て方を変えて見ているにすぎない。だからこそ、三つの境目がすっきり一本の線で引けず、あちこちでにじむのも、理論の欠陥というより、対象そのものの性質だと言えるだろう。
三つの行為、その先へ
こうして意味・力・結果という三つの層が、ようやく手もとにそろった。次に手をつけるべきは、その真ん中の層——力——そのものの中身である。意味・力・結果という三つの層が切り分けられたことで、オースティンは最終講で、発語内行為だけをさらに分類する作業に取りかかる。それが、判定・権能行使・約束・態度表明・言明という五つの類——次の記事で見る、オースティン自身「あまり気に入っていない」と認める、最後の大仕事である。