最終講(第12講)で、オースティンは発語内行為をおおまかに分類する作業に取りかかる。前の記事で見た「発語内の力」——警告する、命じる、約束するといった、発話が担う機能——を、いよいよ体系立てて整理する番である。概要記事ではその結論だけを紹介したが、ここでは本人がどれほど手探りでこの分類にたどり着いたか、その過程を読む。
数千語からの出発
前の記事で見たとおり、発語内行為は「発語内の力」によって特徴づけられる——同じ発語行為(何を言ったか)でも、警告として言われることも予測として言われることもある、あの「力」だ。ここまでは個々の実例(警告する、約束する、命じる)を挙げるだけで済んだが、最終講ではその実例を体系的に集め、大きな類に整理する作業が待っている。分類の材料集めは、力業だった。一人称単数・現在・直説法・能動態という簡便なテストを使いながら、簡潔な辞書を気前よくめくっていくと、「10の3乗のオーダー」の動詞のリストが得られる、とオースティンは言う。なぜ「1,000」でも「約1,000語」でもなく、わざわざ「10の3乗」という妙な言い方をするのか——オースティンは脚注でみずから茶化してみせる。「その方が印象的で科学的に聞こえるから。それに1,000から9,999までという、ちょうどいい幅を持たせられるから」。この数千語の動詞から、五つの大まかな類を取り出す、というのが最終講の仕事である。
五つの類、その定義
I distinguish five more general classes … by the following more-or-less rebarbative names: (1) Verdictives. (2) Exercitives. (3) Commissives. (4) Behabitives (a shocker this). (5) Expositives. (私は五つの、より一般的な類を区別する……次のような多かれ少なかれ感じの悪い名前で呼ぶことにする——(1)判定型。(2)権能行使型。(3)約束型。(4)態度表明型(これは衝撃的な語だ)。(5)言明型。)
なぜよりによってこの五つなのか。オースティンの発想は、辞書の見出し語を分類するような辞書的なものというより、もっと機能に着目したものだ——同じ「約束する」という行為でも、法廷での宣誓と友人への口約束とでは重みがまるで違うが、どちらも「何かを引き受ける」という同じ力を持つ点で一つの類にまとめられる。逆に、見かけの文型(命令形か、平叙形か)が同じでも、力がまったく違う発話は別の類に分かれる。つまりこの五分類は、動詞の見た目やニュアンスではなく、その発話が話し手と聞き手のあいだで何を成立させるかという一点で線を引こうとする試みなのだ。
一つずつ、本人の説明を見てみよう。
- 判定型(verdictives)——陪審員・仲裁人・審判による「評決」に典型的に見られる型。最終的なものである必要はなく、見積もり・査定・鑑定なども含まれる。事実であれ価値であれ、確定しにくい事柄について「見解を下す」行為。判定を下す者が、必ずしも当事者自身の考えを表明しているとは限らない点が、次の約束型との違いになる。
- 権能行使型(exercitives)——権力・権利・影響力の行使。任命する、投票する、命じる、勧める、警告する、など。判定型が「見解を下す」行為であるのに対し、こちらは「実際に何かを動かす」行為である点が異なる。
- 約束型(commissives)——約束、あるいは何かを引き受けること全般に典型的な型。意図の宣言や、「加担する」というやや曖昧な行為も含む。話し手自身がその後の行動を拘束される点で、権能行使型ともまた違う。
- 態度表明型(behabitives)——オースティン自身「きわめて雑多な集まり」と認める類で、態度と社会的なふるまいに関わる。謝罪する、祝福する、称賛する、弔意を示す、呪う、挑戦する、などがその例である。
- 言明型(expositives)——オースティンいわく「定義がむずかしい」類。発話が議論や会話の流れの中でどう位置づくか、言葉をどう使っているかを明らかにする、おおまかに言えば「説明的」な行為で、「私は答える」「私は論じる」「私は認める」「私は例証する」「私は仮定する」「私は前提する」などがその例だ。議論を一歩進めるための、いわば足場を組む行為だと言ってもよい。
本人の率直な迷い
分類を示したあと、オースティンは自分の仕事の限界を隠さない。最後の二つの類——態度表明型と言明型——が「いちばんやっかいだ」と率直に認め、分類が明確でないか、交差しているか、あるいはまったく新しい分類が必要なのかもしれない、とまで言う。態度表明型はあまりに雑多に見えることが、言明型は途方もなく数が多いうえ、他のすべての類に含まれているようにも独自であるようにも見え、自分自身にもうまく説明しきれないことが、それぞれの理由だという。
この五分類が難産だったことは、判定型・権能行使型・約束型という最初の三つと、態度表明型・言明型という残りの二つとのあいだの、扱いの落差にも表れている。最初の三つには、それぞれ陪審員の評決、権力者の命令、約束という、比較的はっきりした核があった。残りの二つには、そうした核が見つからない——態度表明型は「社会的なふるまい」というだけでは範囲が広すぎ、言明型にいたっては、他のどの類の要素も併せ持ちうるように見えてしまう。
最終講の終わり近く、オースティンは五類を一文ずつに凝縮する。
To sum up, we may say that the verdictive is an exercise of judgment, the exercitive is an assertion of influence or exercising of power, the commissive is an assuming of an obligation or declaring of an intention, the behabitive is the adopting of an attitude, and the expositive is the clarifying of reasons, arguments, and communications. (まとめれば、こう言えるだろう——判定型は判断の行使であり、権能行使型は影響力の主張あるいは権力の行使であり、約束型は義務を負うこと、あるいは意図の宣言であり、態度表明型は態度をとることであり、言明型は理由・議論・伝達を明らかにすることである。)
そして講義そのものを、こう締めくくる。
I have as usual failed to leave enough time in which to say why what I have said is interesting. … I should certainly like to say that nowhere could, to me, be a nicer place to lecture in than Harvard. (いつものように、私は自分が話してきたことがなぜ面白いのかを説明する時間を、十分に残せなかった。……だが、ハーヴァードほど講義をするのに気持ちのいい場所は、私にとって他にないと言っておきたい。)
分類が完成しなかったことを隠さず、それでいて話を終わらせる——この率直さと軽さが、遺稿から編まれたこの本の、最後の読後感を作っている。
こうして最後まで見てくると、この五分類はきれいに閉じた棚割りというより、著者自身が「まだ途中だ」と認めながら残した、たたき台に近いことが分かる。だからこそ、後継者たちが手を入れる余地が残された、とも言える。最初の三類(判定・権能行使・約束)が比較的くっきりしているのに対し、後の二類(態度表明・言明)がぼやけているという非対称そのものが、発語内行為という現象の広がりの大きさを、逆説的に物語っている。
五分類、その後
オースティンの教え子ジョン・サールは、1969年の『言語行為』でこの五分類を批判的に検討し、宣言型(declarations)や指示型(directives)を含む、独自の五類へと組み替えた。サールが不満を持ったのは、オースティンの五類が動詞の分類基準(何を基準に類を分けているか)を一つに絞りきれていない点だった——ある類は話し手の心理状態で、別の類は発話の社会的効果で、というふうに基準が混在している、という批判である。オースティン自身が「最後の二つがいちばんやっかいだ」と認めていたことを思えば、この後継作業もまた、オースティンが遺した「率直な迷い」への一つの応答だったと言えるだろう。
分類基準を一本化しようとするたびに、今度は別の場所で例外がこぼれ落ちる——これは五十年以上たった今も、言語行為論の教科書で繰り返されてきた光景である。オースティンがこの最終講で見せた「たたき台のまま、正直に終える」という態度は、弱さというより、対象の複雑さに見合った誠実さだったのかもしれない。分類を完成させることよりも、分類という営みそのものの難しさを浮き彫りにしたことこそが、この最終講がいまも読み継がれる理由なのだろう。